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CMC Philosophy

CMC 理念

カトリック中央医療院の理念は、

治癒者としてのイエス・キリストを体現し、
病に苦しむ人々を癒すことである。
我々は、その理念の実現のため、
崇高な使命感を備えた医療人を養成し、
医学を研究・発展させると同時に、
愛に満ちた医療奉仕活動を行うための努力を惜しまない。

  1. 01

    我々は、 患者の心身の苦痛を和らげ、お祈りと奉仕を行うことによって、我々はもとより、患者とその家族においても、病気を治すのは主であるという信念を持つようにする。

  2. 02

    我々は、 最新の技術と知識を有する力量のある医療人を養成し、彼らが皆キリストにならい、惜しみない愛で患者に接するよう教育する。

  3. 03

    我々は、 病気を退治するための最善の治療と予防、リハビリテーションに努める。しかし、いかなる状況においても、生命の神秘と尊厳性を損なうような研究は決して行わない。

  4. 04

    我々は、 健康を取り戻しつつある患者が主の愛を体験し、神の子になるよう導く。また、死を迎える人々が、神の御国に対する新しい希望と人間としての品位を保てるように助力する。

  5. 05

    我々は、 貧しく心の拠り所がない患者の困難な状況に真摯に耳を傾け、患者が暖かい医療の恩恵を受けることができるよう努める。

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Vision

ビジョン

カトリック中央医療院の未来の青写真

CMCビジョン2020エンブレム

四方に伸びていく愛の象徴である光と生命尊重を形象化
ネットワークを通じてシナジーを発揮する医療クラスターを形象化
すべての人への平等な愛と奉仕を誓うCMCの精神をマルチカラーで表現

生命を尊重する世界的な先端医療

生命を尊重する世界的な先端医療 vision 2020
  • 人間の尊厳性

    人間の尊厳性と生命に対するカトリック教会の精神を表現

  • 医療 NETWORK

    世界のカトリック医療機関との
    医療Networkを構築して世界的な
    カトリック医療ブランド(brand)を具現

  • 最高の医療サービス

    知識産業の医療として病院、大学、研究所、
    関連企業の相互連携と
    シナジーを創出する最高の医療サービスを提供

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前文解説

  • カトリック教会が過去2,000年以上の間、医療活動に深く関わってきた最も根本的な理由は、創設者であるイエス・キリストの現存として、地上の教会がナザレイエスの人生と活動を見倣い、神の癒しの力を聖霊の贈り物として受けて(Ⅰコリント12,9)患者に実践する責任があると信じていることにあります。また、神の模像通りに創造された人間(創世記1,27)の生命を尊重し、人間の成熟と社会の発展に貢献しなければならない教会として、そのための技術的な研究と奉仕を内容とする医療事業に率先することはあまりにも当然のことです。

    1980年代初めまでの教会の医療事業は、主に慈善医療活動をその基本内容としてきました。これは、健康が人間の基本権として認められない政治、経済、社会制度の下で、病気を抱えている多くの貧しい人々がこれによって苦しんでいたからであり、彼らを教会が世話しなければならなかったからです。

    しかし、1980年代から始まった急激な社会変遷と医療の社会化の傾向が、徐々に教会医療のこのような社会的機能を減少させてきたことも事実です。かといって、今日の教会医療が担当しなければならない社会的役割自体が縮小しているとか、それによって教会医療の存在理由が消滅したという意味ではありません。

    それよりは、「今日の医学は、人間の共同生活の中での教育の傾向、全人的評価、組織社会の相関的生活行動、変遷したり忘れてしまった価値観の回復、そして人類の希望のための新しい意味づけ等において過去よりも重要になり…」と教えられた法王ヨハネ・パウロ2世の言葉のように、今日の教会医療は、むしろ新しい次元の医療活動を通じて、キリストの現存を証明する義務を負っているのです。もちろん最近になって、医療の多様性と現代的管理運営の専門知識によって、原則的で伝統的な教会医療活動を繰り広げる上で、多くの現実的な困難があることも事実です。

    したがって、今日の私たちの教会医療は、時代に合った管理運営によって私たちのビジネスを伸ばしていくことも怠ってはならないし、これまで以上に適切な職業観と高い倫理意識で徹底的に武装して、カトリック医療精神を具現することに邁進しなければなりません。
    ゆえに私たちはみな、カトリック中央医療院が追求しなければならない本来の使命を再確認し、教会医療機関としての使命と設立理念を確立して、私たち皆がそれに応じて模範的に生活できるように自分自身を訓練する必要があるという認識と自覚の下で、「カトリック中央医療院の理念」*を制定したのです。

    * 1986年11月24日に制定された「カトリック中央医療院の理念」は、その後2015年3月23日付でその名称が「カトリック中央医療院の霊性」に変更された。

  • カトリック中央医療院の霊性は治癒者としてのイエス・キリストを私たちの中に体現して、病気に苦しむ人々を守ることにある。
    私たちはこの霊性を具現するために崇高な使命感を持った医療従事者を養成し、医学を研究・発展させる一方で、愛に満ちた医療奉仕を行うために絶えず努力する。

    <カトリック中央医療院の霊性>の前文は総論的性格を帯びるものであり、最終的には治癒者であるイエス・キリストを私たちの中に体現するという基本精神と、具体的な医療奉仕を通じてこれを実践しようとする私たちの決意を込めている。

    1.治癒者であるイエス・キリスト

    イエス・キリストは、人間を苦しみから根本的に解放させるために生涯をささげました。この事実は、聖書に記されているイエス・キリストの癒しの行動によって確認できる。
    イエスはハンセン病患者を治し(マタイ8,2-4)、百人隊長の使用人を治させ(ルカ7,1-10)、ペテロのしゅうとめや多くの悪魔につかれた人々と他の病人たちも癒された(マルコ1、 29-34)。また、脳卒中患者や(マルコ2,1-12)下血する婦人(ルカ8,40-56)、盲人と聾唖たちを(マタイ9,27-34)癒され、死んだ会堂管理者の娘と(マタイ9,18)やもめの息子(ルカ7,11-17)、そしてラザロ(ヨハネ11,38-44)を生かしてくださった。
    イエス・キリストがこのように多くの患者を治癒された根本的な動機は、人間への思いやりと愛だった。
    したがって、治療は愛の実であり、帰結である。愛と思いやりから始まったことでなければ、私たちの医療は肉体的療はできるかもしれないが、真の人間の癒しはできない。

    2.キリストを私たちの中に体現する

    治癒者であるイエス・キリストを私たちの中に体現するということは、何を意味するのだろうか。カトリック教会では、創設当初から救療事業を通じて、一人一人の患者に対するイエス・キリストの関心と思いやりを明らかにしようとした。つまり、患者を治癒するイエスの姿と精神を見倣おうとしたものである。イエスは、患者を治癒するにあたり、苦しんでいる病気や病歴に関心を置かず、病気を患っている患者に関心を置かれた。つまり、イエスはどのような症状があるのか​​、いつから、なぜそうなったか、どれほど痛いか、などについて聞くよりは、病気を患って苦しむ患者自体を哀れみ、患者の人生を左右する信念であるに信心ついて、あるいは彼が持っている人間的欠陥について言われた。イエスはすべての人が永遠の命を得ることを望んだので、患者の肉体や精神的病気を治癒しながら、すべての生命と病気の治癒は、まさに神から来るという事実を悟らせようとされた。
    このようなイエス・キリストの癒しの活動を見倣って実践することが、治癒者であるイエス・キリストを私たちの中に体現することといえる。

    3.実践意志

    前文の後半は、霊性具現のための実践意志と目指すべき点を示している。つまり、前文の後半では、崇高な使命感を持った医療従事者を養成し、最新医学について研究・開発させることはもとより、全人診療のレベルでより良質の診療を施すだけでなく、さらに人間愛と宣教精神に基づいて院牧と慈善活動を伸ばしていこうとする実践意志を表現している。

    韓国にカトリック教会が入ってきてから200年余り、これまで私たちの教会は宣教活動の初期から、貧しい人々に対して格別の関心を傾け、患者たちへの世話も怠らなかった。だから地元の教会や修道団体は、貧しくて頼る所のない患者をケアするために慈善医療施設を設立して運営してきた。特に1936年に聖母病院を開院して、より現代的な医療活動を広げるために努力する一方で、1954年にカトリックの精神に基づいて医療専門家の養成を目的に医科大学を設立し、1962年には医科大学と附属病院を総括するカトリック中央医療院を発足させ、国内に医療院制度を最初に開始する模範を見せるなどした。

    カトリック中央医療院は、これまでカトリックの精神に基づいて、国民の健康と医療向上のために教育、研究、診療事業など、時代の要請に応える医療活動を行ってきており、これによって他の医療機関の手本になってきた。しかし、次第に肥大化する機関の運営と急激な医療環境の変化により、私たちの本来の使命と社会に向けた具体的な役割の遂行を怠る危険性がなくはないことを覚えておかなければならない。

  • 私たちは、患者の肉体的病気と心の痛みを和らげ、絶え間ない祈りと奉仕で、私たち自身はもとより、患者とその家族の病気も治癒するのは神であるという信念を持つようにする。

    各論1は、病気の真の治癒者であるイエス・キリストへの信仰と全人治療に向けた私たちのすべての誓いを表現している。
    カトリック中央医療院と傘下機関に従事する私たち教職員は、医療使徒職を実行する者として、癒しの奉仕職に参加している。私たちは、治癒者であるイエス・キリストを私たちの中に体現し、病気に苦しむ人々に良質の医療を施すように努める一方で、すべての病気の治療は、神のなさることで、私たちはただ彼のツールであるという信念を持たなければならない。

    1.全人治療

    病気は、人間の肉体だけでなく、心と精神も病ませることになる。
    体は心に影響を与えるだけではなく、心も体に影響を与えることになる。
    したがって、肉体的病気だけでなく、心の痛みまで除去してこそ、完全な治癒が行われる。

    イエス・キリストはハンセン病、脳性麻痺だけでなく、精神疾患に至るまで、あらゆる種類の病気を治療する際に、病気だけを治療したわけではなく、心理的障害も見抜いて、愛で人間全体を、すなわち全人治療をしてくださった。

    患者は、単に体の臓器の損傷に伴う様々な症状や病理機能、または精神的障害の状態だけではなく、恐怖心や希望も持っており、病苦から抜け出したいという熱望も持った一人の人間であるとことを、私たちは常に念頭におく必要があるだろう。

    病気の治癒過程で、心理的側面が占める割合も非常に大きいので、患者の心が穏やかでなければ、病気の治癒は期待できない。患者に心の安定を与えるために、医療従事者は、何よりも患者から信頼を得なければならない。

    医療関係者が患者やその家族から信頼を得るためには、言葉と行動が端正かつ丁寧であるべきで、病気についても可能な限り詳細に説明しなければならない。医療使徒職を実行する私たちは、人間の精神的、心理的、肉体的な面を含めて、人間全体を愛をもって治療する全人治療にあらゆる努力を傾けなければならない。

    2.治癒者であるキリスト

    すべての治療は神から来るものであり、私たちは、ただ神の癒しの計画に参加するだけという謙虚な気持ちを持って、患者とその家族もこのような信仰を持つように支援する必要がある。

    イエスはすべての人が永遠の命を得ることを望んだので、患者の肉体や精神的病気を治癒しながら、すべての生命と病気の治癒は、まさに神から来るという事実を悟らせようとされた。

    だからいつも患者や家族に「私にそれができる信じるのか?」(信仰の促し)、「あなたの信心があなたを救った」、「あなたの信心とおりに行われるだろう」、「安心しろ。君の罪は許された」(信仰の確認)という言葉で癒しの奇跡を行い、これにより、患者や家族の救いを図られた。
    したがって、私たちは、カトリック医療機関を訪ねてくる患者が「病気を治癒される方は、神」という信念を持って病気の治療結果を、神の意志に任せるように、そばで助けなければならない。

    3.治療に対する信頼

    私たちは、生命体の解剖、生理、病理、治療の過程などについて多くのことを知っているように思うがちだが、より深く考察してみると、実はその一部だけを知っていることに気づかされる。つまり、人間の知識と技術には限界があることを知ることになる。

    現代医学で治療できる病気も多いが、現在の医学知識と技術では治癒できない病気も数多い。

    一方、現在の医学知識では説明できない意外な治癒過程もしばしば経験する。したがって、現代医学で治癒されない場合でも、私たちは神のご意志が必ずしも人間の意志と一致しないことを深く認識し、常に祈りを通して神に頼って、神はいつも私たちと一緒におられるという信仰の中で診療に取り組まなければならない。

  • 私たちは、新しい知識と技術を持った能力のある医療関係者を養成し、彼らが皆、キリストに似ていて、惜しまない愛で患者をケアするように教育する。

    各論2は、実力があって愛に満ちた医療関係者を養成するという私たちカトリック中央医療院の意志を込めたものであり、医科大学の学生はもとより、私たちの機関に従事するすべての従業員が最新の技術を身につけて、実力のある医療関係者になるように努力するとともに、教会医療機関の従事者らしく、キリストの愛を実践する人になるように教育するという決意を表明したものである。

    1.能力のある医療関係者の養成

    カトリック医科大学を通じて実力のある医師や看護師を養成することは、私たちカトリック中央医療院が行うべき最も重要なことの一つである。

    カトリック大学を卒業するすべての医師や看護師が、病院では自信を持って患者の診療と看護業務に当たり、地域社会では、住民の健康増進活動の先頭に立つ医療関係者になれるように、彼らに最高の医学教育を行う。このため、新しい医学教育方法論の導入と施設、人材開発において、他のどの大学よりも先に努力することを決意する。

    また、医療院に従事するすべての従業員にも、患者の診療はもとより、病院生活全般に必要な新しい知識や技術、そして素養を備えることができるように、適切な従業員教育を実施する。

    2.先端医学研究と技術開発

    私たちは、能力のある医療関係者の養成と最高の医療を提供することにおいて、絶え間ない努力を約束するとともに、この点においては、国内のどの医療機関にも劣らないという誇りも持っている。このような私たちの誓いと自負心が私たちを、より高いレベルの医学研究と技術開発の先頭に立たせる刺激になっていることは言うまでもない。

    これまでカトリック中央医療院は、聖医奨学制度を通じて特殊研究開発と教員の海外研修を支援しており、レベルの高い研究論文の外国発表も積極的に奨励している。最先端の医学研究と技術開発を通じて、私たちのカトリック中央医療院が国内外に広く知られ、その分、地域社会と人類全体の健康増進に大きく寄与する機関になれるよう努力することを約束する。

    3.キリストの愛を実践する医療人像の具現

    カトリック教会のすべての医療活動が最終的に目指すところは、キリストの福音を伝えることにあることは言うまでもない。
    したがってカトリック中央医療院が目指す医学教育は、まず真の人格教育に基づくべきであり、私たちのすべての医療活動は、キリストの愛を実践することでなければならない。

    他のどの医科大学よりも先に、カトリック大学が医学倫理を正規講座として開設し、病院内でのホスピス活動をはじめ、院牧活動に格別な努力を傾けているのも、まさにこのような私たちの精神のためである。

    愛を実践する医療人像を具現することはもちろん、一つや二つの科目の倫理教育や一部の院牧担当者によるボランティア活動で完結されるとは言えない。しかし、倫理教育と奉仕活動を通じて機関の精神と実践意志を再確認することは非常に重要である。
    全ての教職員がキリストの愛を実践する医療従事者になるというこの決意は、カトリック中央医療院が追求する精神具現の根幹を成している。

  • 私たちは、病気の撲滅のための最善の治療と予防、リハビリに努める。しかし、私たちは、人間の生命の神秘と尊厳を害するいかなる研究もしない。

    各論3は、カトリック中央医療院の機能はただ病気の治療だけでなく、さらに一歩進んで病気の予防やリハビリ、生活守護であることを表明している。人間の生命は、ひたすら神から与えられたものなので、誰でもこれを拒絶したり、破壊することができず、このように高貴な人間の生命を維持し、保護するために最善の方法をすべて動員して、病気との闘いに取り組むという点を各論3は明示している。また、最先端技術であっても、人間の生命の神秘と尊厳を害することは決して行うことができない点を、各論3は明らかにしている。

    1.最善の医療

    最善の治療とは、学界で認められる最善の医療技術と心理療法などを含む包括的な治療をいう。

    このため、我々は、最新の医療情報を継続的に習得し、スキルを磨いて良質の医療を提供するように努力し、いかなる状況でも、患者を最後まであきらめない倫理的な使命感で私たち自身を武装する。

    人間が持つ尊厳性の面において、すべての人間は平等である。したがって、地球上のすべての人間、特にすべての階層の患者に均等に良質の医療を施すことができるように力を尽くすべきだ。

    このため、カトリック中央医療院は、最新の医療診断や治療施設を備える一方で、医療スタッフのメンバーは皆、人間愛を基に全人的診療になるように最善の努力を尽くさなければならない。

    2.予防とリハビリテーション

    病気を治癒するよりも、予防​​を通して病気にかからないようにすることのほうがより賢明なことである。いくつかの伝染病や成人病の予防、様々な事故や労働災害防止のために、地域社会の住民を体系的に教育し、様々なマスコミを通じて広く啓発する必要がある。

    特に近年になって、様々な事故の増加と医療の発達に伴う生存率の増加により、自立的に生活することが困難な障害者が多くなり、平均寿命の延長に伴う高齢者障害者数も大幅に増えたことで、障害者のリハビリ問題は早急に解決しなければならない社会的課題となっている。

    自立生活のできない障害者は依然として患者とみなされ、リハビリ治療の対象になるということが、新しい医療の概念である。リハビリ治療を通じて障害者の生活条件を改善することは、人間らしい生活を強調するカトリックの根本精神にも合致する。

    3.人間の生命の尊厳を損なう研究禁止

    人間を病気から解放させて人生の価値を高めるために、継続的な医学発展は不可欠である。しかし、医学発展の過程で人間の生命の神秘と尊厳を害する研究が進めば、これはカトリックの精神に反することである。

    例えば自然法によらない人工的な受胎調節、人工授精、妊娠中絶、安楽死などは、人間の生命の神秘や尊厳を害する行為と規定される。これとは逆に、臨終患者がリラックスして、意味のある死を迎えることができるように支援するホスピス活動は、人間生命の尊厳を高めるために大きな役割を果たすことができる。

    臓器移植術は、自己犠牲を通じて他人の命を救う崇高なことなので奨励されるべきだが、そのための臓器売買行為は許されない。人体に害を及ぼしかねない薬物や手術による人体実験はもとより、命そのものを直接実験対象とする研究は、生命の尊厳を害する行為であるため、決して容認することができない。

  • 私たちは、健康を回復する患者が神の愛を新たに体験し、神の子供になるように導く。また、死を迎える人たちが神の国について新たな希望と人間らしい品位を持つことができるように手助けする。

    各論4は、教会医療機関として、私たちのカトリック中央医療院が行うべき司牧的機能と、特に臨終者のための臨終奉仕を明示している。私たちは、神の救いの計画において病気と苦痛が持つ意味を理解し、病気の苦痛と治癒過程を通じて患者たちが神の愛を感じられるように手助けし、また死が人生の終わりや失敗ではなく最後の癒しと生の完成であることを認識しなければならない。私たちカトリック中央医療院が全人治療の一環として、院牧活動とホスピス活動を大切にしていることも、まさにこのためである。

    1.病気回復を通じての神の愛の体験

    イエスは患者に接して、かわいそうに思われ(マタイ20,34)、彼らを治療された。

    イエスの癒しの行為は、この世界で病気がすべて消滅したことを意味するのではなく、この世界が終わるときに病気を完全に消滅に至らせる神の力が、イエスによって既に実現されていることを見せたものである。
    すべての患者に対して、イエスが求めたのはただ一つである。信仰があればすべてのことが可能なので、信じなさいと言われ(マタイ9,28;マルコ5,36;ルカ8,50; 9,23)。したがって、イエスが行われた治癒の奇跡は、神の国で人類が将来享受できる完全な状態を事前に味わわせることになる。神の国のしるしとして、奇跡的な治癒は病気の体験を通じて、私たち人間をより成熟なものにし、神の愛と慈悲に気づかせる。

    医療関係者は、治癒過程にある患者が病気と苦痛を通じて神の愛を体験し、人間的に成熟し、神の慈悲を信じて感じることができるように手助けしなければならない(ヨハネ15,7)。

    2.死の意味と神秘

    すべての人は、死を体験する。聖書は死の問題を回避することなく、死の事実を淡々と語っている。誰もが「見ることになる死」(詩篇89,49;ルカ2,26;ヨハネ8,51)であり、また、「味わうことになる死」(マタイ16,28;マルコ9,1;ルカ9,27;ヨハネ8,52;ブ2,9)なので、私たちは皆、死に対処しなければならない。キリストがこの世に来られる前に、私たちの人生には、ただ死の虚無と悲劇だけがあったが、キリストがこの世に来られて死なれたことで、死自体に勝たれた。イエス・キリストによって死は今や信者にとって「キリストと共に永遠に生きるために、キリストと共に死ぬ」新しい意味を持つようになった。

    人間の歴史の中に入って来て、私たち人間と同じ条件で生活されたイエス・キリストが、人間のように死んでくださったことで、自分だけでなく、すべての人間を死から解放させられた。私たちは、治療の過程で、現代医学の力では患者が死に至ることを防ぐことができないことをたまに目にする。私たちは、このようなことを治療の失敗と考えるよりは、むしろ死を生命の現実であり、過程として見なければならない。死は人間が到達する最後の成熟であり、病気の最終治癒といえる。私たちは、臨終者たちが人間らしい品位を持ったまま、自分の死をきちんと受け入れることができるように最善を尽くして助けなければならない。

    3.院牧活動とホスピス活動を通じたキリストの愛の実践

    イエスは弟子たちを派遣するときに、あなたのように病気を治す能力を弟子たちに与えたし(マタイ10,1)、昇天を控えて、弟子たちを派遣するときは、弟子たちが福音宣言をするにおいて治癒のしるしが伴われることを約束される(マルコ16,17-18)。

    使徒言行録では、イエスの復活の実際性とイエスの名前の権能を明らかにする治癒奇跡の物語を複数回伝えている(使徒3,1-3; 8,7; 9,32-34; 14,8-10; 28,8- 9)。
    したがって、当医療院のすべての従業員は、キリストのような愛で自分の職務を果たし、自分の職務を教会宣教活動の一環であると考えなければならない。

    このため、医療スタッフと院牧部門はもとより、すべての管理部門に至るまで、カトリック教会の雰囲気が熟するように、全ての従業員が仕事と祈り、典礼を通じて、キリストの愛を実践しているという自覚と誇りを持つべきだろう。

  • 私たちは貧しくて頼るところのない患者の困難な都合に心を傾け、この患者たちも暖かい医療恩恵を受けることができるよう努める。

    各論5は、教会医療機関としてカトリック中央医療院が持つ慈善医療と福音的経営の実践意志を表明している。「主は私に油を注いで、貧しい人々に福音を伝えるように言われた」(ルカ4,18)という言葉で示すように、イエス・キリストの福音の宣言対象は貧しい人々だったという事実に、各論5は基づいている。診療費を払えない患者に慈善医療の恩恵を施すことは、まさに貧しい人々の真の友であったイエス・キリストを私たちの中に体現することであり、これを通じてキリストの福音を効果的に伝えることができる。
    しかし、ここで明らかにしておくことは、与える者と受け取る者の両方が貧困と慈善医療が持つ真の意味を悟り、これを正しく実践することで、このことが純粋に福音精神に基づいて行われるように努力しなければならないということである。

    1.貧しい人

    一般的に、自分が金持ちだと思っている人は極めて少ない。必要とするものを持たない物質的な、経済的な貧困を貧しいと見たとき、私たちの周りには貧しい人々があまりにも多い。さらに必要とするものを自由、幸福、成功などを含むものと拡大解釈すれば、貧しくない人を見つけるのは難しいだろう。

    したがって、各論5で語る貧困は、物質的、経済的な困窮と縮小解釈すべきである。これに加えて、私たちは、聖書の教えに基づいて貧困について正しい概念を確立する必要がある。

    聖書の教えは、貧困の意味をいろいろと語っている。

    「幸せになれ、心が貧しい人々!」(マタイ5,2)とイエス・キリストは、「神の姿を持っておられるが、神と同じことを当然のことと思われないし、むしろあなた自身を空にして、しもべの姿をとるし、人と同じようになられました」(フィリピ2.6-7)のような言葉では、貪欲から抜け出して物質についての無限の欲を捨てられる霊性的に貧しい人が福音を受け入れられる人であることを話している。

    このように、聖書で語る「貧しい人」には、実際に経済的に貧しくて助けを受けなければならない人と、彼らを助けるために慈善を施すことのできる福音的、霊性的に貧しい人の両方が含まれている。

    福音的、霊性的に貧しい人になる時に初めて、私たちは、物質的に貧しい人々を喜んで助けることができる。

    従って、「信者たちは皆一緒に過ごしながら、すべてのものを共同で所有した」(使徒2,44)というお言葉は、「所有権の放棄」を意味する言葉ではなく、富をお互いに自分のもののように利用できるように協力することで共同体の中の貧しい人々を助けるべきだという「財産共有」を意味していることが分かる。

    このような意味から見ると、すべての人が貧しいと感じる相対的な貧困の意味を、福音的、霊性的な貧困の意味に昇華させて、経済的に貧しい人々だけでなく、貧しい心で彼らを助ける人をすべて「貧しい人々」と定義することができる。

    2.慈善医療

    慈善は私が所有したものを、貧しい人々と分かち合うことである。しかし、貧しい人々があまりにも多いため、慈善は機関や組織を通じて、より効果的に行われる。

    慈善行為が可能になるためには、物質的な富を所有した人がいなければならない。イエスが富について複数回(マタイ19,24; 8,36)警告したのは、富そのものがどれほど危険なのかを悟らせる一方、慈善を施すように勧告するためだった。裕福な人は貧しい隣人のために絶え間なく慈善を施さなければならない。また、助けを受けなければならない対象者の選定は、より公平で合理的に行われなければならない。

    医療機関も福音的な意味で貧しい共同体にならなければならないが、これは「霊性的貧困」を基盤に物質的に貧しい患者に惜しまなく慈善医療を施したときに初めて可能である。もちろん、診療費の一部または全部を免除された貧しい患者にも、医療費を支払うことのできる一般患者と同等の医療サービスを提供しなければならない。

    慈善医療の意味は、医療機関の外にも拡大されなければならない。患者の診療費によって発生した利益だけで慈善を施すには、機関の負担があまりにも大きい。機関の従事者たちがまず慈善基金運動に積極的に参加しなければならないのはもちろん、教会共同体でも、他の事業に投資することに劣らぬほど慈善医療に参加して、その荷物を分担しなければならない。

    貧しい人々を単に機関に紹介したり、引き渡すだけの行為は真の意味の慈善ではない。機関の施設と物品を勝手に利用した個人の慈善行為は不当である。

    3.福音的経営

    医療機関は、患者から受け取った診療費と善意の人々が出す献金で経営される共同体であり、機関の真の所有者は神であられる。したがって、ユーザーは、社会法的所有者に過ぎず、真の主人ではない。法的所有者は、委任された権限を行使するので、本来の所有者の意向を正しく具現しなければならない義務が自分にあることを自覚しなければならない。

    患者の診療に必要な良い医療施設や設備の購入、愛に満ちた医療関係者の養成、医学の研究発展のために最善の経営を目指す一方で、効果的な投資が行われるように努力しなければならない。

    教職員には正当な報酬を与えなければならず、善意のあらゆる真心を尽くさなければならない。

    教職員もまたオーナー意識を持って、ユーザーと一緒に機関の共通善のために最善を尽くさなければならない。

    我々は皆、引き受けた任務を創意的に、また誠実に実行しなければならず、霊性的に貧しい人になるように邁進しなければならない。